遊ぶ力
子どものころ、誰しもみんな遊ぶことの達人だった。
たとえ昨今のように発達したガジェットや娯楽コンテンツが充実していない状況でも、遊びに困ることなんて無かったように思う。
友達とスマブラしたりドラクエの攻略について進捗を共有し合ったり、コロコロの新刊発売の翌日に学級王ヤマザキのギャグに腹抱えて笑っていたり、本当に他愛のないネタでめっちゃ楽しく話していた。
学校でも業間休みともなれば全力でドッジボールや鬼ごっこしていたもんだ。
結局何もなくても最速で楽しいことを考えては遊びに転換する。
この繰り返しでちびっこ世代を終えたように感じる。
転換期
そうして一生暮らしていくと考えていた子供時代だが、いつしかそれも終焉を迎えていた。
だいたい中学に入った後からのように感じる。
一体どうしてそうなったかは明確には分からないんだけど、仕組みというか社会全体からの雰囲気が変わっていったんだと思う。
どういうことかというと、「遊ぶことは悪」みたいな風潮がそれ。
遊びもいいけどしっかり勉強して真面目に生きろよ、ってノリを少しずつ脳に刷り込まれていった気がしてならない。
小学校と明らかな違いがあったように思う。
例えば中学校にはブランコやジャングルジムのような遊具も無ければ、休み時間用のボールや一輪車が無い。
これは由々しき事態だ。
中学校に入った僕はびっくりした。
「遊具ないやん・・・マジか」って。
当時はそれだけだったけど、今思えばこれは社会・中学からの明確なメッセージだったかもしれない。
「遊びは終わりだよ」って感じ。
遊びづらい
それでも負けじと、というか普通に仲間と遊び続けはするんだけど、何だか違う。
キャッキャして遊び倒すことはあまり推奨されてない感が醸し出されている気が凄いする。
何だろうこの違和感は?みんなも何となく少し様子が違う。
急に大人になった感を出してる、気がする。
先生のノリも上級生のノリも変だ。
序列や目上の人との関係が急に重要なものであるかのような存在感を持ち始めた。
別に誰かが明確に言い始めたわけではないけど、雰囲気がそういってる。
これは一体だれの意思なんだろう。
そして何の目的でこんなことになっているんだろう。
凄く疑問だった。
違和感→普通に
上記のような風潮は自分が大きくなるにつれ、コミュニティの段階が上がるにつれみんなの常識として定着していった。
大学では一時その気風も格差というか人によって振れ幅があったが、それでも全体としては変わらなかった。
就職して社会人になるともうその価値観は完成している。
組織と社会に適合して当然。
遊びの介在する余地、出番はごくわずかにもプライベートの時間のみ。
もう、あのいつでも楽しかった遊びの日々は過去の思い出となる。
遊びのなくなった世界
そんな世界で生きていて、そんな世界の矛盾と弊害を目の当たりにする日が来た。
それは職場でのある一幕でのできごとだった。
外部の方にわが社の設備と技術をお見せするイベントだ。
簡単にいうと、短時間でカレーが大量に作れるから凄いよ!みたいなノリのイベントだった。
そのイベントを仕切っていたのが昭和の最高傑作みたいな、超つまんないタイプのおじさんだった。
その人の回しで着々と流れていって、みんなでカレー食いましょうってな流れなんだけど、マジで凄かった。
もうずっとお通夜みたいな感じ。
若手の作り手達は目立つことを嫌ってずっとしゃべらないし、そのMCのおじさんも普通だから全然盛り上がらない。
最終的にコの字型のテーブルでみんなで黙々とカレー食って終わった。
いや、凄いな。
これ誰が楽しいんだろう?みんな大丈夫?来たくない飲み会に来た人と同じ空気だよ。
僕はカメラマン役だったんで関係ないから助かったけど、それでもいたたまれないくらいには地獄だった。
遊ぶ力はいつだって大事
いや、ひどかった。
控えめにいって地獄だった。
ああいうおじさんは駄目なんだなって本当に思った。
ちゃんと遊んでこないからこうなるんだよね、きっと。
「ほら、若い人はなんか無い?しゃべって良いよ」じゃないよ(笑)マジで分かってないんだなと思った。
日頃、真面目に遊ばずに黙々と仕事してろっていうニーズを出してそれに慣れていると、こういう場面で困るんだ。
真面目に生きることと、遊びながら生きることは両立するんだ。
極端になるとこんな事故が起きる。
人生はバランス。
もう令和も3年にもなったし、古い変な価値観はトイレに流して若くて楽しい感性を大事にして生きていきたいと考えさせられる良いケーススタディだった。
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